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ブレゲの出生から少年時代まで
ヌーシャテルの街
アブラアン-ルイ・ブレゲは、1747年1月10日にスイス時計の中心地であるヌーシャテルで生まれました。
ブレゲの家族はもともとフランスのプロテスタントであったため、フランスの宗教戦争の折、教会を求めてスイスに移住しました。ヌーシャテルを選んだ理由はBreguetというファミリーネームがよくあるものだったからです。
ブレゲが11歳のとき、父親が亡くなります。その後、母親はブレゲの父親のいとこであるジョセフ・タッテと再婚しました。タッテはパリに店を持つほどの腕の良い時計師だったのです。
ブレゲの修業時代
ヴェルサイユ |
ブレゲが15歳になった頃、義父のタッテはブレゲをヴェルサイユへと時計職の年季奉公に出しました。当時ヴェルサイユはフランスの中でも芸術と科学の主要な地であり、国王によって強大な支援を受けていました。 ブレゲの義父タッテはパリに店を持つほどの時計師で、当時の優れた時計師たちと交際があり、評判の良い師匠にブレゲを託すことが出来ました。ブレゲは、そのかたわらマゼラン学校(College Mazarin)の夜間クラスに通い、数学を学びました。当時突出していたブレゲの才能は時計学のパトロンであった国王の目にとまり、ブレゲは生涯の仕事の発端から順調なスタートを切ったのでした。 |
修業時代後のブレゲの活動
ブレゲの年季奉公は約五年後の1767年にほぼ終了しました。翌1768年に彼の義父とその家族はフランスへ移住、この頃から7~8年間におけるブレゲの活動に関してはあまり記録に残っていませんが、この当時クロノメーターの製造業者として名高かったフェルディナン・ベルトゥの弟子として働いたという説もあります。ベルトゥは当時における時計製造の中心地であったポン・ヌッフ(セーヌ川に架かる有名な橋)の近くに店を構えていました。後にブレゲが彼自身の店を構える場所の近くです。 ベルトゥはクロノメーター製造の第一人者で数々の発見をした人物です。ブレゲはベルトゥの時計作りにおいての哲学に共鳴したかどうかは別として、それらの発見に少なからず興味を持っており、影響を受けていたと推測されています。 |
ブレゲの結婚と事業のスタート
ブレゲの最初の工房跡 |
ブレゲの実力がいかなるものであったとしても、自身の事業を確立するには資本金が必要でしたが、ブレゲは結婚する以前に多額のお金を有することは出来ませんでした。 1775年、ブレゲは身分の高いパリの若い女性マリー・ルイセ・リュイエと結婚しました。このとき妻マリーの持参金によりブレゲの創業を可能にしました。 ブレゲは同じ1775年にパリのケ・ドゥ・ロルロージュに二人の住居と店を構えました。ここから5年間のうちにブレゲの名声は定着し、確固たるものとなりました。 このころブレゲは、ポケットウォッチやマリンクロノメーター製作者達にとって重要な拠点であったロンドンへとしばしば出掛けて行ったのではないかと推測されています。1775年~1787年の間にブレゲが製作し、残存している時計の中のいくつかは英国調に宝石がセットされイギリス式のチャイムが使用されています。 |
ブレゲと自動巻時計
「ペルペチュエル」 |
ブレゲの時計学上での発明は沢山ありますが、彼が自動巻時計に非常に深い関心を持っていたことは明らかです。 自動巻時計はスイスにおいてアブラアム・ルイ・ペルレによってすでに製作されていました。しかし、ペルレの発明した自動巻機構を完全なものとは考えなかったブレゲはさらに応用し発展させたのです。 それが「ペルペチュエル」と呼ばれる機構であり、1780年にオルレアン公爵、1782年にはマリーアントワネットのために製作されました。 自動巻機構開発に成功したブレゲは1786年までに「ペルペチュエル」を多量に製造することになるほどの十分な研究開発を行いました。「ペルペチュエル」の製作には多くの時間と経費を投じ、当時としては非常に付加価値の高い時計となりました。 当時の自動巻機構は現在の回転方式ではなく、錘が上下に往復することでゼンマイが巻き上げられるものでした。 |
合名会社の設立、そして分裂
「ペルペチュエル」の開発と製作の間に、ブレゲはシンプルで一般的な二度打(音を鳴らして時刻を知らせる)時計も販売していました。ブレゲはこれらの基本的なムーブメントはジュネーブの友人である時計師から入手し、パリで手を加えケースを作って仕上げていました。それらの時計には、彼の後の仕事にみられるような独創的な部分はありませんでしたが、ケースや文字盤のスリムでシンプルな優美さの中にブレゲ特有の品の良さが備わっていました。 1787年、事業拡張のためにブレゲは時計商グザヴィエ・ジードと共に合名会社を始めました。しかし、この事業は長くは続きませんでした。この期間にはブレゲの時計製作の仕事はあまり進まなかったようです。1791年までに記録された31個の「ペルペチュエル」の内、売れたのは6個のみ。それ以外の時計も70個が記録されていますが、その内3個しか売れませんでした。この原因は非常に単純で、パリを離れることの多かったブレゲが時計を完成させなかったためです。この頃ブレゲは他から購入した置き時計や懐中時計に自身の名前を印したにすぎないものの販売活動に多くの時間を費やしていました。 決まり切った仕事の繰り返しに魅力を感じなかったブレゲはジードとの共同事業を4年半後に解消しました。ブレゲは自分自身の未来がヨーロッパ王室や裕福な君主のために精巧で複雑な新製品の開拓することにあると見抜いていたのでした。 |
フランス革命、パリからスイスへ
フランス革命 |
ブレゲは貴族たちに対して思いやりがあった反面、民衆の新しい政治思想にも敬意を表して自由に立ち回っていました。貴族たちを顧客としていたブレゲは革命には反対派でしたが、多額の借金を背負った貴族たちの代金支払いの悪さにかなり苦しめられていたのも事実です。また、貴族と親密な関係にあり、時計購入で貴族に浪費させているブレゲは革命のリーダーとの関係も危ういものとなっていました。 貴族的な社会との交友や女王・王室とのビジネスを最終的段階まで続けていたブレゲは革命の指導者に狙われることとなり死刑の危険にさらされました。1793年8月12日、ブレゲは息子と義理の姉と伴に社用旅行と偽ってパリを去ったのでした。 スイス・ジュネーブに着いても危険な状態が続いていました。ブレゲはフランス革命主義に対する反逆者と見なされ、大変冷たく扱われたのです。ジュネーブでのビジネスは難しいと判断したブレゲは1793年終わりになって故郷であるヌーシャテルに定住して工場を立ち上げようと決意しました。さらに、より良い条件で材料や労働力を確保できるル・ロックルにも追加工場を創設しました。最終的には仕事量の少ないヌーシャテルの工場はル・ロックル工場拡張の為に移動しました。ブレゲの工場は1794年までにル・ロックルにおいて6名ほどの従業員を抱える規模に成長しました。 |
ブレゲ、パリにもどる
2年近くに及ぶブレゲのスイス滞在は多くの挫折や苦労あったものの、結果として将来の方向性や計画を練る時間を持つことができました。そして、多くの発明にも取り組むことが出来ました。スイス滞在中の発明にはパーペチュアルカレンダー、トゥールビヨン、同調時計、モントレアタクト(感触時計)などがあり、一針時計もおそらくパリに戻ることを見越して考え出されていたと推測されています。また、贋作防止のシークレットサインもこの時期に考案されました。 革命の恐怖も和らいだ1975年4月20日にパリに戻ったブレゲは、パリが経済的危機に陥っていることを知りました。時計は贅沢品としてではなく、陸軍、海軍、そして科学者が使用する為のものとして緊急に必要とされていました。ヴェルサイユの時計製造センターは再建され、ブレゲは重要なポジションを任されます。 ブレゲはフランス革命において命の危険にまでさらされたにもかかわらず、一市民として自分の頭脳をこの国の発展のために喜んで捧げようと決意しました。ブレゲは革命により失ったケ・ドゥ・ロルロージュの家を戻すように要求し、受け入れられなければヴェルサイユの時計製造センターの指導職を辞退するつもりで粘り強い交渉を行った結果、ついにその家はブレゲに戻されたのでした。ブレゲがパリを離れて3年後のことでした。 |
ブレゲの国際的な名声と彼の顧客
ブレゲの顧客 |
ケ・ドゥ・ロルロージュで再び仕事に従事したブレゲは時計学の歴史において国際的な名声を得ました。彼の工場から生み出された信じがたいほど複雑な機構はその時代において大変驚異的なものでした。ブレゲが考案した機構と文字盤やケースに施された素晴らしいデザイン手法は、他の時計師たちを遙かにひきはなしており賞賛されました。 ブレゲはイギリス、ロシア、スペイン、トスカナ、オランダ、ナポリ、ヴァヴァリアなど世界のほとんどの王位についた支配者たちを顧客に抱えていました。フランス革命以前にはマリー・アントワネットがプレゼントにブレゲの時計を選びました。ウェリントン公爵やナポレオンはブレゲの時計を常に持ち歩いていました。また、アレクサンダー・デュマ、バルザック、クプリン、プーシキンを含むその時代の流行作家たちは作品の中にブレゲの名をあげました。 |
ブレゲの個性、その芸術
複雑なメカニズムと、その芸術性への幻想をいだく富裕層の顧客たちのために時計を製作することを喜びとしたブレゲの選り好みは、時として欠点であると指摘するものもいました。彼が時計学を純粋に科学・技術として追求しようとする気がもっとあったなら、さらに偉大な時計の発展をもたらしたであろうと今日でさえも示唆する人がいるようです。しかし、永い目で見ると、ブレゲこそが時計に芸術的・工芸的価値を見いだし、のちの世に伝えたのです。つまり、時計産業を多面的に発展させるための道を切り開いたことになります。薄型時計の製作にしても、彼の気まぐれでも道楽でもなく、時計においての「美の追求」であって、今日では標準スタイルとなっています。常に技術上の困難さを征服しようとしたブレゲの才能は、時計学上に偉大な貢献をしました。彼の功績によって時計製造の世界で二世紀分に匹敵する発展を遂げたとさえ言われています。 ブレゲの才能は晩年の彼を大変裕福にしました。しかし彼はケ・ドゥ・ロルロージュの家での変わらぬ暮らしを続けました。その時代の人々がブレゲに向けた尊敬と注目は、人間として、時計師として素晴らしい成功を遂げたしるしです。1823年の博覧会においてまで活躍し、また審査員も務めましたが、この年の9月3日に76歳で亡くなりました。 |